【鬼滅の刃考察】童磨の最後に生きてきた意味|感情がないという事
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この記事では、鬼滅の刃163話でついに最後を迎えた上弦の弐の童磨についての考察を、
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以上の項目に沿ってご紹介させて頂いております。
【鬼滅の刃考察】童磨の最後に生きてきた意味|感情がないという事
鬼滅の刃の童磨の最後についての考察~童磨の生に意味はあったのか?~
鬼滅の刃第163話では、ついに童磨に最後の時が訪れました。
感情が無いという童磨でしたが、今回は、本当にそうだったのか?また、彼が人として、鬼として生きた時間に意味はあったのかについに考えてみたいと思います。
感情がないという事
童磨は自分の中に感情がないと考えていたようです。
しかし、甲塚的にはそれは大雑把な表現であると思います。
正確には、感情というものを理解できなかっただけであるのではないか?
それは、自分の中にあるはずの感情の存在を認識できないことになり、認識できない故に存在しないことになる…
童磨にとって感情とは『幽霊』のようなものであったのかも知れない。
あるのかも知れないが、自分には認識できないので、それはあるとは言えないという理屈だったんじゃないですかね…
まあ、感情というものは感じたり、感じ取ったりするものですから、その感性というか第六感みたいなもの…それは全ての生命が等しく備えるものだと思うのですが、童磨は高い知能に反比例して、その第六感の感度が低い人物であったのかも知れませんな…