【終末のワルキューレ46話以降考察】釈迦が神を嫌いになった理由|神が救わぬなら俺が救う
神が救わぬなら俺が救う
釈迦は人類を『神が救わぬなら俺が救う、邪魔する神なら俺が殺す』と口にしていましたが、釈迦の神嫌いの理由はまさにそこにありそうです。
過去記事にも書いていますが、釈迦が悟りの道に入ったのは生老病死をはじめとする八苦から人間を救済する為だったんじゃないかと思います。
人間であった釈迦がそう志したのは、神がそれをしないからだったんじゃないか?
今回は、零福が人類の不幸の源を絶って幸せにしてあげようと必死の行いをした様子が描かれたわけですが、結局、福を零す福の神である零福にも真の幸福とは何ぞやという答えを持っていなかったと証明された。
神々は人類が悔い改める事なく堕落の一途を辿っている故に人類に終末を与えようとしていますが、神とて煩悩の塊であり、人間と同じく苦しみの中に生きる存在です。
そんな存在が、自分達の意向にそぐわぬからと言って終末を与えようというのは傲慢の極み…!
真の幸福の答えを持たない者に生み出されたが故に、人間がその答えを知らずに煩悩を剥き出しにして生きるのは道理。
自分達の写し身と言える存在を悪しき者とするなら、それは自分達も滅ぶべき存在であると言っているのと同じであると…
釈迦はそんなふうに考えているのかも?
そもそも、神々は人間にどのような存在たれと教えてきたのか?
教えてきたのは、どれも神の奴隷と変わらない生き方ではなかったか?
人間に自由意志を与えて生み出したのは、そもそも神であるはずで、それが意向にそぐわぬというのは、やはり道理ではない。
つまり人間にとって神は不条理で傲慢で理不尽…
精神性に於いては人間以下とも言える存在…
故に、人間にはもう神は必要ではない。
人間は自ら真の幸福を悟る事ができる。
その可能性を摘み取ろうとする者を俺は許さない、それが神を嫌い敵対する理由?