東京喰種re最終巻16巻からドナート・ポルポラの最後についての考察|理屈ではない親子という人間関係
理屈ではない親子という人間関係
ドナートは孤児院を営み、そこに預けられた子供達を捕食していたわけだが、なぜか亜門だけには手をつけなかった。
亜門曰く、ドナートは
子供達の為に、おやつとしてドーナッツを作ってくれたり、寒い夜には毛布を掛けなおしてくれたり、みんなで飼っていた犬が死んだ時はその墓を作ってくれたようだ。
甲塚思うに、ドナートは捕食した子供達に対し、愛情を持って接していたはずだ。
これは理屈ではない。
愛情の発生は止めようもないし、また、喰種としての食欲も同じである。
ドナートは非常に知能が高いが、彼の高等な知能が己の行動の矛盾を冷酷に分断し、矛は矛であり、盾は盾であり、敢えてそれを戦わせる事をしなかったのであろうと思う。
要するに、
子供達に愛情を注ぐのもドナートであるし、子供達を捕食するのもまたドナートである。
そこに矛盾は存在しない。
と思う事により、精神のバランスを保持していたのだと思われる。
そんな中、亜門はドナートにとって特別だったようだ。
おそらく、亜門はドナートと似た部分があったのでは?
それはおそらく愛情表現の『不器用』である事だと思われる。
亜門がそれに対し不器用である事は明らかだが、ドナートも湧いてくる愛情を抑える事が出来ないから苦しんだはずだ。
ドナートはそれから目を背ける事を貫いたが、亜門はそれに真正面から向き合ったと思われる。
ドナートはそんな亜門を取り分け愛し、捕食対象と見ることができなかったのだろう。
また、亜門はドナートの正体を知り、筆舌に尽くしがたいほど傷ついたはずで、それは捜査官になる原動力となり、捜査官としての優秀性に繋がった。
しかし…
半喰種となり、人間や捜査官という軛から解き放たれた時、ドナートに対する本当の思いに気づく事になった。
亜門は、息子として父親ドナートを愛していたのである。
これは理屈ではない。
心と心の結びつきは理屈では説明できない。
何年か前に、ある小学校のある学級が子豚を育て、最後には食べるという命の尊さを学ぶ学習をするという映画がありました。
そのラストではクラス内で食べる、食べないの究極の選択をテーマにディベートが行われますが…
それとはまた違うかも知れませんが、ドナートは子供達を捕食する際、常にその究極の選択をし、亜門の時は食べない選択をした、という事なんでしょう。
それが自分にとって食物であっても、逆に自分が食物であると理解していても、そこに愛情が成立していれば、立場や事情は感情や欲求を超越するということなんだと、甲塚は考えました。
まとめ
ドナートは亜門の
『息子が父親を愛して何が悪い』
というセリフを聞いて、涙を流しながら事切れるまで笑い続けました。
それは、不完全であり何が一つ満足にできないと思っていた自分が、この世に何かを残せたのではないかという安堵と単純な喜び、また、亜門の愚直さと自分の愚かさが入り混じっての笑いであったと思います。
彼は同情の余地の無い悪人かも知れませんが、亜門にとってはまぎれもない父親でした。
彼が神に求めた救い…
最愛の息子の言葉によって、彼に救いがもたらされたと甲塚は思いたいです。
この記事でのご紹介は以上になります。
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