零福が吸った不幸は七つの大罪となり七福神化?|幸福は自分で至るもの
幸福は自分で至るもの
零福は釈迦に率いられた…いや、自らついていく一団と遭遇しますが、その一団は貧しい者や病人や怪我人、そして老人達…
八苦の塊であるかのようなその一団は皆、満たされたような微笑みを讃えている。
それを不審に感じた零福はなんで皆がそんな幸せそうにしているのか?
自分はみんなから不幸を吸い取り、幸福になるはずなのに、むしろもっと不幸になっている。
しかし、この一団は一体何故みんな幸福そうなんだと釈迦に尋ねますが、釈迦は不幸を吸い取るのは間違いだ。
不幸あるところに幸福あり。
幸福は与えられるものではなく、自分で至るものだと答える。
まさに、仏教の極意のような教えです。
不幸がなくなれば幸福なのではない。
幸福が与えられたら不幸でなくなるわけでもない。
本当の幸福を知り、自らの心にそれを築き上げる事が幸福に至る唯一の道。
何も持っていなくとも、健康でなくとも、人は幸福に至る事ができる。
釈迦はそう言っているのだと思います。
神であっても人間であっても獣や虫達であっても等しく命を持ち、心を持っているから同じように苦しみは尽きない。
零福自身も今は、苦しみの只中にあるわけです。
本当の幸福を知れば、その苦しみはパッと喜びに変わる。
仏教では、経済的に豊かであるとか健康であるとか今その時点からどのように変わるかわからないような刹那的な幸福はそうであるにこした事はないが、それよりも、どんな状況にあろうとも、また、なろうとも生きているだけで喜びを感じられると言う心の状態を最上の幸福だと教えています。
釈迦についていく一団の人々は、まさにそれを体現していたと思います。
零福はそれを自分の目で見て、真実であると悟ってしまった。
しかし、神のプライドはズタズタにされてさまったわけですね。
奇跡の力を持ち永遠の存在であるかのような神も、人間と同じことように苦しむ。
零福は神であるプライドに拘ると共に、人間と変わらない存在であるとも証明した。
しかし、零福はもしかしたら人間から不幸を吸いとってしまったが故に、悟れないと言う不幸を背負ってしまったのかも?