鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察|兪史郎の名言についても考える
鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察についてこの記事をご覧いただきましてありがとうございます。
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この記事では、鬼滅の刃146話で善逸が師に会ったシーンで咲いていた彼岸花についてと、兪史郎の名言についての考察を、
- 鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察|兪史郎の名言
- 鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察|善逸と彼岸花
- 鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察|最後に
以上の項目に沿ってご紹介させて頂きます。
鬼滅の刃146話の善逸と青い彼岸花について考察|兪史郎の名言
鬼滅の刃146話、兪史郎の名言と善逸と青い彼岸花についての考察~正体と所在の伏線か?~
段々と壮絶な展開になりつつある『鬼滅の刃』!
今回は146話での兪史郎の名言について、また生死の境を彷徨う善逸と彼岸花について考察してみたいと思います。
兪史郎の名言
落下する獪岳と善逸…
善逸を救出すべく突如現れた兪史郎は首だけになった獪岳に次のセリフを吐き捨てました。
『人に与えない者はいずれ人から何も貰えなくなる』
『欲しがるばかりの奴は結局何も持っていないのと同じ』
『自分では何も生み出せないから』
『独りで死ぬのは惨めだな』
真顔で淡々とそれを吐き捨てる兪史郎の『声』が、甲塚にはたしかに聞こえたように感じました。
その声は耳に聞こえたわけではなく、甲塚の心に聞こえたのです。
兪史郎は、獪岳の生き方をこの短いセリフで如実に表現していますね。
獪岳が得たかったものは漠然とした『満足』だったのだろうと思います。
しかし、『満足』というものは欲して得られるものではなく、おのれの心に感じる事で初めて得られるものであると考えます。
欲しいものを全て手に入れたとて、それで満足を得られるとは限らず、欲しいもの全てを手に入れても、また別のものが欲しくなる…
その輪廻から解脱しない事には、人は満足を得る事はないでしょう。
その解脱の方法を、兪史郎は
『人間は決して独力で生存しているのではない』
故に、
『己という存在を認めてくれる他人の存在に気づく事』
であると教えたかったのかも知れない。
人間というものは、独りでは成立しない存在…
己が存在するという事を認識してくれる他人があって、初めて『存在』が成立するといって過言ではないでしょう。
人間は、成長するにつれて親や兄弟…己を取り巻く人々があって初めて己が存在する事を理解していくものですが、獪岳は師匠と善逸の己に対する愛情に気づけぬままでいた…
己の事しか考えられない者は、最後には独りになり、永遠に満足を得る事はない…
また、このセリフのシーンはかなり印象的に描かれていましたが、これは吾峠先生の哲学や心情をメッセージとして伝えたい意図があったように感じます。
甲塚は吾峠先生のこういうところが好きなんですよね(笑)