霊感は万人に等しく備わった感覚|甲塚的オカルト第2回
霊感は万人に等しく備わった感覚についてこの記事をご覧いただきありがとうございます。
いい芝居してますね!サイト管理人の甲塚誓ノ介でございます。
この記事では甲塚的オカルト学として霊感についてを
- 霊感は万人に等しく備わった感覚|第7感第8感的なもの
- 霊感は万人に等しく備わった感覚|甲塚の考え
- 霊感は万人に等しく備わった感覚|最後に
以上の項目に沿ってご紹介させて頂きます。
霊感は万人に等しく備わった感覚|第7感第8感的なもの
甲塚的オカルト学第2回 『霊感』
『霊感』
普通に生きていれば、誰でも絶対に一度は遭遇する言葉なのではないでしょうか?
増してや、オカルト関係に興味のある方なら、それは最早日常的な言葉といって過言ではないでしょう。
今回はこの『霊感』というものについて考えてみたいと思います。
霊感とは?
古くは神格や仏の存在を察知し、それら超越的な存在と交信する為に必要な超感覚として認識され、現代では霊的存在を知覚できる力、平たく言えば超能力のように認識されているように思います。
古くは『霊感』というものは神官や高僧、預言者と呼ばれるような特別な存在である人間のみが備えるもので、神格や仏の力を借りて奇跡を起こしたりする事もあり、一般人とは隔絶された神聖な能力でしたが、現代の日本では1970年代から始まるニューエイジ運動や超能力ブーム、スピリチュアルブーム、また怪談のエンターテイメント化などにより、広く一般に認識されましたが、
『霊感=超能力』
という認識がなされ、『霊感』という言葉の意味がかなり広義に変化、進化しているように思われます。
霊感は万人に等しく備わった感覚|甲塚の考え
甲塚的『霊感』に対する考え
ここからは、まあ、そんな考えもあるんだな~程度で読んで下さい(笑)
甲塚の『霊感』というものを、人間が持つ五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、そして勘や閃きなどの第六感と同じもので、第七感、第八感とも言える感覚であると定義しています。
仏教では感覚を『識』と呼び、第六識、第七識なんて表現します。
漫画『聖闘士星矢』でも第七識はセブンセンシズ、第八識はエイトセンシズや阿頼耶識と表現してましたね。
で、仏教では第九識まで言及されています。
第九識は九識論で『生命の根源』について言及されたものですが、それはまた別記事で(笑)
話を戻します。
『霊感』とは、霊的存在を知覚する為の感覚で、万人に平等に備わっていると甲塚は考えます。
理由は至ってシンプル。
人間には、視覚は目で、聴覚は耳で、嗅覚は鼻で知覚します。
甲塚は、霊感は『心』で知覚するものだと考えます。
『心』を持たない人間が存在するでしょうか?
『心』は万人に平等に必ず備わっているものです。
故に、霊感は万人が持つ感覚の一つに過ぎない。
シンプルでしょ?(笑)
なら、なぜ霊的な存在を知覚できる人とできない人がいるのか?
これも答えはシンプルです(笑)
信じているか、いないか、または霊的存在に影響を受けているか、いないか、によると考えます。
人間は個々がそれぞれの個性により別々の世界観を持って生きていますよね?
それは、個性が別々の世界を生きているとも言えると考えます。
例えば、『神』が実在すると信じる人間の世界には『神』が存在しますが、実在しないと考える人間の世界には『神』は存在しません。
今のところ、甲塚が知る限り、その真実を明確にできる人間も、方法も存在しないでしょう。
故に、全世界の大多数の人間はその問題に対して『わからない』と言うしかありませんよね。
例えば、大事故から三人の人間が生き残ったとして、一人は『神の御加護で救われた』と思い、一人は『運がよかった、助かった』と思い、一人は『運がよかった、何かに守られたのかも?』と感じたとします。
神の御加護で助かった人はその人にはそれが真実。
運の良さで助かった人はそれが真実。
運がよかった、でも何かに守られたのかもしれないと言う人にはそれが真実。
要は、個々の世界観により物事の捉え方が違うという話で、それ以上でも以下でもありません。
霊的な存在があると信じている人間の世界にはそれが実在し、そういう人間は信じられるという事、それが最早霊感を備えている事の証明であると言えると思います。
しかし、信じていなくても、どうでもよいと思っていても、ある日突然、見てしまった、聞いてしまった…
現に見てしまったのだから、認めざるを得なかったという人もいて、甲塚が知る限り、霊感があるという人間はそういう人間の方が多いように思います。
人間は自分の深層心理まで把握できているわけでもないし、その心は無常で、常に一定ではありません。
他人から影響を受けたり、迷いが生じたり考えが変わったりは、しょっちゅうでしょう。
ほとんどの人間は、霊的存在を信じていなくても、深層意識の中で漠然とした霊的存在への恐怖を抱えているものであると思います。
存在するわけはないが、存在したら『怖い』とか『面白い』と思う事は影響を受けていると言う事で、それ自体が、その人間の世界に霊的存在が存在し得る可能性につながると甲塚は考えます。
霊感は『心』で知覚するものだと書きました。
『心』は、仏教では『認識』と呼びます。
『心=認識』というものは人間の内側にあるものだというのが常識で、思考そのものが『心』であるというのが現在の常識であると思います。
しかし、甲塚は『心』と『思考』は別物であると考えます。
また、『心』は人間の内側ではなく、外側にあるものではないかとも考えています。
『人生は誰かの見ている夢』
という考え方があるようですが、甲塚はこれにほぼ同意で、外側にある『心』こそ人間の本体で、日常の生活、人生はその心が見ている夢なんではなかろうか、とも思ったりします。
肉体が滅ぶとその魂とも呼ぶべきものが外側に抜け出るといいますが、抜け出るのではなく、在り方が変わるだけなのではないかと思うのです。
『心』は肉眼には不可視ですが、『心』では知覚できる。
人間は肉体の生命活動が終わると『心』の方にその認識が反転するのではないでしょうか?
そういう反転した存在を知覚する感覚が『霊感』と呼ばれるものなのかも知れません。
霊感は万人に等しく備わった感覚|最後に
まとめ
甲塚も40年を超えてしまった人生の中で、理解し得ないものを見たり、現象に遭遇した経験があります。
しかし、それによって人生が激変したという事はありません。
ただ、元々霊的な物事に対する興味は人一倍ある方なので、色々と物思いに耽る事は多いですな(笑)
霊感は鋭鈍の差はあれど万人に等しく備わった感覚で、視力5.0の人間と0.1の人間が見える範囲が違うように、ただ感覚の差があるだけなんだと思います。
長々と書きましたが、あくまで甲塚が思ったり考えたりしただけの事なんで、『ふ~ん』くらいに捉えて下さいね(笑)
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました!