【鬼滅の刃170話考察】悲鳴嶼の痣と命に対する認識|実弥、玄弥、無一郎の執念
実弥、玄弥、無一郎の執念
実弥、玄弥、無一郎の三人は今、死の狭間にあると言えます。
最早、鬼と戦っている場合ではなく、一刻も早く病院に行かねば…いや、病院に行ったとしても生き残れるかどうかもわからない状態です。
三人は揃ってそんな状態でありながら、何か役に立ってからじゃないと死ぬに死ねないとばかりに行動しています。
柱達はメンタル的にも常人を遥かに超越していると思いますが、それでも動ける状態にはないと誰もが見えるとおもうのですが、ボロボロの体を動かす力は最早執念だと言えるでしょう!
人間として生まれたなら、この世界に自分が生きたという証を残してから死にたいと思うのが自然でしょう。
これも自己愛になるのかも知れませんが、黒死牟の他者を犠牲にする自己愛と、他者の為に何かをしたいという欲求を果たしたいという自己愛とは意味も価値も全く違うと甲塚は考えます!
自分の命がどうなろうと、今この場で黒死牟や無惨を討ち取らなければ、これからも犠牲者は増え続ける!
三人の頭には、今この場で黒死牟を討ち取る事しか頭にないのでしょうね!
まとめ
甲塚は、鬼達の存在理由、意義より鬼殺隊の存在理由、意義の方がより強いと感じます。
鬼達には、根源的な存在し続けたいという欲求以外に何も感じないからです。
鬼達は条件を満たしさえしていれば半永久的に生きていけそうですが、ささやかな幸福を破壊し、他者を犠牲ににしてでも存在し続けて、その先に何か救いはあるのでしょうか?
黒死牟は、何か救いようのらない存在であるように見えますが、彼が救われるとするなら、それは彼が鬼になった理由に繋がっているように思えます。
この記事でのご紹介は以上になります。
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